日本宣教の答え

先日、第31.32回日本福音同盟「信教の自由セミナー」報告書の「なぜ日本でキリスト教は広まらないのか」(森島豊師)を読みました。明治維新以降の日本社会が「一君万民…天皇の前において全ての国民が平等…」という日本型人権社会を巧妙に作り上げた点を指摘しています。

中世の王様は、絶対的権力を持ちましたが、王も神によって権限を委託された「人」です。民衆は、神に従わない王に対して抵抗する権利があり、事実抵抗して王を退けました。維新政府は、欧州の政治制度を取り入れましたが、民衆が政府に抵抗する権利に感化されることを大変恐れました。そこで、背景のキリスト教を巧妙に骨抜きにしました。例えば「天皇も人であり、神に従わなければ退くべきだ」「憲法に規定されたのだから憲法に従うべきだ」などとは言わせない雰囲気を「日本の文化」として作り上げたのです。天皇という「人の上に立つ人」を無条件に受け入れる精神性は、多数への安住を好み、一方で少数者を軽んじ、身を避ける精神土壌を作りました。キリスト教のファンは増えても、唯一真の神の前に生きることを選べない、無意識の思考が「日本の文化」となったのです。

講演者は、日本でキリスト教が広まるには、個人的に神体験をすることだと語ります。その為に教会は「イエス・キリストは、今、ここに生きておられる」ことを伝えなければなりません。

家の教会に、勝機はあるのでしょうか。私は「ある」と言います。牧場の分かち合いは、生活から入り、深い個人的課題に及びます。牧場の切なる祈りに、主は内面の癒しを与え、やがて生活を整えて解決を与えます。この個人的神体験が信仰を決心させ、受洗を経て教会に連なります。日本的精神性と社会との戦いは残りますが、道コースと礼拝により、み言葉による確信と、更なる個人的神体験を重ね、主の弟子として育まれる幸いを味わい続けます。家の教会は言葉にできない抑圧から人々を解放し、喜びの人生を提供します!

「キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20抜粋