教会の納骨堂!?
来週(11/13)午後、知立教会の納骨堂として借りている十字ヶ丘復活苑(日進市)にて、召天者記念礼拝をいたします。内心に触れることですが、聖徒の葬りについて私見を申し上げます。
死者の遺骸や遺骨を葬った場所が「墓」です(広辞苑)。身分制度の下では、墓は高位者のみの特権であり、世界共通の傾向でした。庶民は町外れで遺骸を処理されるか、簡素な石や木を墓標にできれば良い方でした。現代も墓のあり方は、地域や風習の影響を受けており、墓相等高額負担の悪徳が人心につけこむ隙を残しています。
旧約聖書では、族長アブラハムのマクペラの墓が印象的ですが、民衆の墓に関する記事は見当たりません。新約の時代になると、イエス様の死とよみがえりにより、御国の希望が明確になりました。
教会が納骨堂を持つ主な理由が二つあります。まず、死は御国への旅立ちです。ちりからできた体から解かれ、やがて御国の姿をいただく希望の門口です。召された本人ではなく、故人を偲ぶ者が、御国への希望を確信できる施設が重要です。家制度への傾倒や、死者崇拝を防ぐ意味で、納骨堂の使用がふさわしいと考えられます。
次に、昨今「墓じまい」が話題になるように、墓は現世代の負担であり、後世に残す負債の面を否定できません。教会では、納骨堂の共同所有により、礼儀を失せず、かつ負担を軽減しました。
納骨堂は、教会員であれば誰でも使用できます。同じ御国の国籍を持つ者として、教会納骨堂を用いていただけるならば幸いです。その為に、生前の意思表示が重要です。知立教会は納骨堂を借りていますが、独自に納骨安置場の設置を検討する時期とも言えます。皆で学びつつ、証となるより良き御国の門を、描き備えましょう。
「キリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました」エペソ1:11抜粋