「5分もある」
日々の生活は一定ではなく、時間に追われ続ける時もあれば、ゆとりをを持てる時もあります。十年単位の大きな変化もあれば、数日や数ヶ月単位の変化もあります。ひたすら作業を続けなければならない時もあれば、見える結果に至らない生みの苦しみの時もあります。自分で調整できる時もあれば、隣人や職場の変化に合わせなければならない時もあり、状況が混じり合う時もあります。そしていつも、思い通りに事が進むことはほとんでありません。
個人的にも、決まり事の小さな結果を積上げる務めもあれば、説教や御旨を求める時など形にならない苦しみもあります。隣人の必要を覚える時は、自分の都合を手放さなければなりません。皆さんも、日々時間を上手に使うことを願いながらも、思う通りに行かない葛藤を経験されているのではないでしょうか。
私がいつも励まされている言葉があります。神学校時代に教えていただいた湊晶子先生は、子育て期にも「5分しかない」ではなく「5分もある」と言って、細かな時間を積上げられました。家事の間にも立ちながら論文を書き続け、書き上げたとお聞きしました。実際は、5分ではどうにもならない事が多いと思います。しかし、「しかない」と「もある」のどちらに心が支配されるかによって、結果の質にも量にも、大きな差が出るように思います。
コロナ過もあいまって、日常に余裕を持てない昨今。すべてをご存知で治めておられるお方に信頼し、小さな時間を上手に使い、忙しくても有意義な日々を楽しみたいと思います。そうして、神様が用意される、隣人との小さな出会いにも暖かな心を向けたいと願います。コロナ禍の時にこそ、私たちから流れ出る小さな厚意や、暖かな眼差しと声掛けが、人々の渇きを潤し、慰めと希望を与えるに違いありません。5分もある、と今日も主と隣人に仕えます。
「親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする」箴言16:24