家の教会に生きる

 NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」を久し振りに観ました。「作ることが、生きること」陶芸家・辻村史郎74歳

 日本より海外で評価の高い孤高の陶芸家。独学で極めた独特の作風による作品には、土の性質を生かした荒々しさと繊細さが調和しています。精神的土壌には、死への恐れがあるとのこと。絵画での芸大入試失敗後、二年間禅に身を置きますが、死の恐怖は拭えませでした。そんな時に出会った陶芸に、自分の内にある「何か」を現そうと、奈良の山里で五年間、自作の窯と家で妻と生活しながら、独学での作風を磨きます。ひたすら土をこね、窯に向かい、お金が無くなると里に下り、道端で作品を売って食べつないだそうです。

 その後、偶然辻村の作品を目にしたコレクターが、仲間に紹介。世界から引き合いが来るまで、それ程時間はかかりませんでした。今も、五十年前の自作の家に住み続け、時間を惜しんで土をこね、窯に向かい、野草と茸、自作の野菜を食して夫婦で暮らし、上手く表現できた作品は、先ず妻に見せ、一緒に味わいます。

 二つの言葉が、強烈な印象と共に心に残りました。「後悔のエネルギーを、やり直しのエネルギーに向ける」「作ることが、生きること」。陶芸家になった二人の息子が「極めてせっかちで、目の前の事しか見ていない」と証言します。辻村自身の内にあるものを、陶器に表すために生き、ひたすら作品に向かい続けているのです。

 内にあるものを表に出す生き方は、怖い面もありますが、願う生き方でもあります。何事も、どうしようかと考えますが、自然に出て来るものが真実であり、最善です。上手くいかなければ、それが現実。自分自身を磨くこと以外に、何もありません。

 家の教会は、宣教方策ではなく、主の用意された、主のからだの生き方そのものです。私たちは、主の器官として、各々に良く機能するように賜物を管理し、磨き続けます。それで十分なのです!

「それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長し…」エペソ4:16抜粋