終戦の日に思う

 本日は終戦記念日です。76年前の1945年に、日本が始めた戦争を無条件降伏によって終えた日です。先日、90歳のお爺さんが、生々しい戦争体験を、小学生に話している映像が流れていました。80歳を過ぎてから、体験した事実を伝え始めたそうです。空襲から逃げる途中、足元から「助けてくれー」と聞こえたと思ったら、伸ばされた手に足首をつかまれ、無我夢中で振り払ってい逃げ、道沿いの家の窓にはちぎれた手がぶら下がり、首のない赤ちゃんを抱いた傷だらけの母親が泣き叫び、死体があちこちに転がる中を逃げたそうです。お爺さんが包み隠さず話す姿から目を離さず、真剣に聞き入る小学生(高学年)たちの真直ぐな瞳が印象的でした。

 お爺さんの実際の経験では、耳をつんざく爆音と泣き声や叫び声が聞こえ、吐き出すような死臭と焦げ臭さが覆い、よどんだ空気が身を包み、何日も何か月も何年も逃げることのできない日々が続いたと思います。同じ経験はできませんが、小学生がゲームの戦争とは違う、本当の戦争の一面を知ったことは生涯の宝となります。

 世の中のデジタル化が進み、見たいものを誰でも簡単に見られるようになりましたが、AIを使った検索により、見たいものだけを見せるように、情報元が支配するようになりました。便利なようでとんでもなく恐ろしい罠です。見たいものだけ見て満足するなら、見たくないものから得られる価値ある情報を失うことになります。

 終戦は、なぜ開戦したのか、なぜ停戦できなかったのかを、現代に問い続けます。権力者は、見通して判断したのか。国民も、選択肢を理解し選んだのか。それとも、流されたのか。

 私たちは、神を敬い恐れつつ、隣人を愛し、魂の救いと弟子作りに仕えます。御旨にかなうように、そして愛が隣人に届くようにと苦心し、実を結びます。神と隣人と自分の三方向から見て、考え、選び、実行します。私たちは、この時代にある平和の器なのです。

「何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを…」ローマ12:2抜粋