生きたささげ物

教会(きょうかい)愛児(あいじ)(えん)では、立場上(たちばじょう)苦情(くじょう)をお()きすることがあります。()()いていない(てん)(おし)えていただいたり、肯定的(こうていてき)可能性(かのうせい)(しめ)していただいたりする価値(かち)ある助言(じょげん)(おお)くあります。しかし、対応(たいおう)しようがない()(けん)もあります。(えが)理想像(りそうぞう)と、現実(げんじつ)教会(きょうかい)(えん)姿(すがた)比較(ひかく)しておられる場合(ばあい)(しょう)じるようです。具体的(ぐたいてき)現実(げんじつ)()()いた(うえ)で、知立(ちりゅう)姿(すがた)(そそ)がれている労苦(ろうく)(すこ)しでも()るならば、無茶(むちゃ)意見(いけん)()ません。フィールドと客席(きゃくせき)(じっ)行者(こうしゃ)傍観者(ぼうかんしゃ)(ちが)いです。

(かみ)家族(かぞく)(しゅ)のからだとして機能(きのう)するには、各々(おのおの)にからだの器官(きかん)として「()きる」必要(ひつよう)があります。自分(じぶん)自身(じしん)身体(からだ)()てわかるように全器官(ぜんきかん)理想(りそう)姿(すがた)()ち、十二分(じゅうにぶん)(はたら)きをしているとは()えませんが、それは問題(もんだい)ではありません。自分(じぶん)機能(きのう)()たそうとするなら、()器官(きかん)(ささ)えられている現実(げんじつ)気付(きづ)くからです。十分(じゅうぶん)でなくとも、()器官(きかん)(はたら)きに感謝(かんしゃ)し、なしうる(はたら)きを(ささ)げるならば、(しゅ)にある調和(ちょうわ)によって、からだの(ちから)発揮(はっき)することができます。

(わたし)たちが完全(かんぜん)ではないことをご存知(ぞんじ)のお(かた)は、(わたし)たちの献身(けんしん)(よろこ)んで()()れてくださいますから感謝(かんしゃ)です。それだけではなく、(むく)いとして(そな)えられた賜物(たまもの)発揮(はっき)できるように調整(ちょうせい)してくださり、一層(いっそう)キリストに(つよ)(むす)()わされます。(すじ)(とお)った()(かた)は、(おお)くの隣人(となりびと)希望(きぼう)(あた)えるにちがいありません。理想(りそう)(うしな)うことなく、()(まえ)一歩(いっぽ)()()し、結果(けっか)として理想(りそう)(ちか)づく(しゅ)知恵(ちえ)感謝(かんしゃ)

(かみ)(よろこ)ばれる、(せい)なる()きたささげ(もの)として(ささ)げなさい」ローマ12:1抜粋(ばっすい)