大人しい人に
「おとなしい」という言葉入力すると「大人しい」と変換されます。広辞苑には、大人びている、年長者らしい、落ち着いて穏やかである、けばけばしくなくすなおで落ち着いていると、記されています。10~20代の頃、熟年の姿をぼんやり空想していました。血気盛んで感情に振り回されている自分が、年齢と共に成長し、落ち着いた穏やかなおとな…大人しい姿に変るのです。しかし、そうはいきませんでした。年齢相応の外見に比べ、中身は大人しいわけはありません。とても、落ち着いて穏やかとは言えないからです。
しかし、ふと気付かされたことがあります。イメージ通りではありませんが、変化していないわけでもありません。以前の自分と比較すれば、自分への落胆が穏やかになり、隣人への要求や批判が減り、出来事を素直に受け入れられるようになりました。わかっていてもできなかった事、治めようと思っても治められなかった事、反対に思わぬ助けをいただいた事などを経験したからだと思います。イメージした成長は、自分が高められることであり間違ってはいませんでした。しかし現実は、むしろ低められることを通して、生かされている幸いに気付かされたのです。
イエス様との出会い、そしてイエス様を信じる人々との出会いが決定的でした。時間はかかりましたが、ここにいて良い、生きていて良い、少しずつ良くなるから大丈夫と思えるようになりました。低められると表現しましたが、実は、イエス様に愛され、教会で受け入れられることを通して、自己評価が高まったのです。
聖書の教会は、困難にあるイスラエル人ギリシャ人ローマ人に、生きる価値を共同体を通して確信させました。家の教会には、私が長年かけて確かめた恵みを、より濃厚に短期間に確信に至らせる、愛の力があります。一人ひとりの人生に、充実期間をより長く提供するのですから幸いです。愛に満ちた大人しい人生に感謝します!
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」イザヤ43:4抜粋