比較による成長

BS民放の報道番組で発せられた、小泉環境大臣の言葉が印象的でした。脱炭素社会の実現に対して、世界的潮流から遅れている日本は「石炭中毒」と揶揄(やゆ)されています。大臣は、昨年の国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議(COP25)で、批判の矢面に立たされましたが、今年、石炭政策の大転換にこぎつけました。転換の主な理由は、①世界的批判を浴びて継続する程、石炭火力の効率は良くない。②日本の技術が優れていると言いながら、実際には中国企業に投資している。③石炭への執着により脱炭素社会実現の潮流から一層遅れる。これらの指摘により、日本の現実が明らかになり石炭火力発電所の輸出がなくなりました。大臣曰く「割りに合わない、理屈に合わない、世界の変化に合わない」です。私は、「事実」が「思い込みと都合」を打破したこの出来事を知り、改めて「比較」について考えさせられました。

神様の御前にあって、人との優劣を比較する必要はありません。社会生活では人と比較されることがありますが、神様は私たちを、尊い唯一の人として見てくださり、導いてくださいます。一方で、他の人々の考え方やあり方・選び方・感じ方・表現など、自分からは出て来ない、異なる個性と触れ合うことは価値があります。違いを知ることにより、自分自身の特質を再確認することができるからです。ある場合は、自分に備えられている賜物、すなわち一層整えることにより、自分と隣人を幸せにできる賜物に気付くでしょう。ある場合には、気付かずに見過ごしていた、自分と隣人の祝福のために、成長させたり矯正を試みたりする必要がある性質に気付くでしょう。本当の自分の姿に気付くために、隣人、とりわけ同じ志を神様から頂いている神の家族を通して、自分を知る事ができるならば幸いです。神様の育みのご計画がここにもあるからです。

「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」箴言27:17