家の教会による献身

家の教会に仕える信徒には、主の宣教命令に忠実であったという霊的な満足が与えられます。隠れた誠実さや、見える結果は一定ではありません。生活や心身の健康、仕事などの影響も受けます。しかし、地上での生涯を終える時まで、時々に許された形において、主に忠実であろうとする姿勢は、結果的に潤いと感動のある生活、隣人に恵みをもたらす充実人生を歩ことになります。

ポイントは、救い主を「主」と仰ぎ、主から託された命令に忠実であることです。とても簡単な応答ですが、単純に受け止められるまでに、私は受洗後26年という多大な時間を要しました。

家の教会に出会った時、仕える信徒と、信徒を支える牧師のあり方に非常な衝撃を受けると共に、これが聖書の教会であるという確信を得た喜びを、今でも忘れることができません。

総会決議を経て家の教会の歩みが始まり、10年が過ぎた現在はどうでしょうか。「これが聖書の教会である」という確信はますます強まります。一方で、主から託された命令に忠実であるというシンプルさを保つことの難しさを覚えています。原因は「経験」です。私たちは、観察し判断し決めた通りに歩む能力を神様から与えられています。ある場合は、能力がシンプルな応答を複雑化しているように思うのです。家の教会は、時間をかけて、手間をかけて、心を割いて、否定的反応に負けず、愛しても執着せず、委ねても祈り続けます。いずれも、合理的ではないイエス様の姿がモデルです。

改めて、主の宣教命令に対する応答として、シンプルに仕える献身を確かめたいと願います。また、家の教会が機能する要件を確かめ、必要に応える献身を献げたいと願います。

「管理者に要求されることは、忠実だと認められることです」Ⅰコリント4:2抜粋