家の教会の牧師になり、自分の訓練になっている恵みがいくつもありますが、その一つが発言に対する責任です。まだ途上ですが意識できる幸いを感じています。
先週の総会では発言内容の配慮が足らず、焦点を曖昧にさせてしまいました。新任執事に関する説明では、執事の思いに焦点を当てたつもりでした。しかし、補強情報としてお話した内容の表現が強く、印象に残ってしまったようです。朗子師の背景説明により、ある程度焦点が戻されましたが、発言の未熟さを痛感しました。
学び続けているのは、ふさわしく届く発言です。発言の内容はとても大切ですが、どのように相手に届いたかという結果も同様に重要です。聞き手の内心に関わる事柄なので、結果の全体を知ることはできませんが、予め聞き手の受け取り方にも配慮された話し方をすることができるならば、より良き心の交流と情報交換ができます。
相手の受け取り方がわからないといって、不安になったり恐れたり反対に無関心になったりせず、関心を持ち続け、よりふさわしく発言内容が届くように心がけることは、魂の救いと弟子づくりにおいても、とても重要ではないでしょうか。まだ、見本を示せるようになっていませんが、私の取り組みが、牧者はじめ神の家族の励ましとなり、共に試行錯誤できれば幸いです。特に身近な人への心遣いによって訓練が実を結ぶように、共に祈りつつ取組みましょう!
「私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました」ピレモン1:7抜粋